孔子が存在した紀元前500年ごろの平均寿命は30~40と言われてます。その時代に孔子が70過ぎまで生きたということは、現代で150まで生きるようなものです。逆に言えば、当時の人には、40にして、50にしてと言われてもそこまで生きないのでまったく意味がなかったことになります。つまり、この孔子の教えは、現代の方がむしろ適切にあてはまるものであり、人生80年以上と考えると意味を成します。

 

平均寿命は順調に伸びており、より多くの人が長生きしています。ただ、この長生きが計画を崩し、確定拠出型の年金制度を破壊することになりました。年を取れば病気も増え、医療機関に対する依存度も増してきます。年金、医療、そういった社会保障に依存しなければならないというのが「老いる」ことの現実だと言えます。ただ長く生きるということは社会にとって別にプラスになっているわけではないので、周りの負担に依存していると感じることは生きる上での希望にはなりません。そこで、多くの人は健康に、そして社会に何らかの貢献、そしてこの世に自分が存在したことによる何らかの価値を残していきたいと思うはずです。50までは自分の為、家族の為、そして将来の為に必死で働き、貯蓄をします。50にもなると、子供が自立し、住宅ローンの返済も終え、まさに人生のターニングポイントになります。人生100年と考えれば、セカンドハーフの人生の始まりになります。何を目標に後半の人生を生きていったら良いのでしょうか?

 

4.子曰、五十而知天命(50にして天命を知る)

 

この孔子の言葉から50は知名と言われるそうです。では何を知ることなのでしょうか?天命とは天から与えられた命令のことだそうです。50にもなると多くの人は、子育ても終え、お金儲けにはそれほど関心が失せていくようです。そして何らかのゴールを模索します。そのゴールを天から与えられるというのはありがたいものです。キリスト教ではCALLINGという言い方をしますが、自分が神から与えられたギフト(タレントや資金)を神が良しとする目的に対して投資をするという神から召される使命です。つまり、天命というのは自分がこの世に生まれてきた意義のようなものです。これが「ある」「ない」では生きる希望という視点が大きく変わります。50歳は人生の過渡期であり、日々の生活に新たな目標がないと、定年退職後の鬱や、熟年離婚などの問題を引き起こしかねません。自分の存在意義がなければ希望が見いだせず、パチンコ、酒、テレビなど無駄に時間を過ごし終わってしまいます。

 

その目標を考える際に意識しなければならないのが、「死」です。生きる目標とはその終わりを意識して初めて意味を成します。死ぬ歳に、「世に対する役割を果たすことができた」と満足して死ねるかということです。以前、宗教や神の概念がこの世に存在するのは「死」があるからだと大学の宗教学の教授が言っていました。確かに人類の歴史に宗教、「神」の存在は大きく影響し、哲学の世界でも「人間の存在」を神と関連付けて研究がされてきました。科学が進んだ現代で、この考えは時代遅れだという人もいます。ただ、世界の80億の人口の内、無宗教の人の割合は僅か12%であり(宗教辞典)、日本人のように無宗教が多い国であれ、「霊」や「見えない力」を信じる人は少なくありません。更に「死を意識した際」特に自分が避けることのできない死に直面した際に「神様助けて!」と神にすがるという行動は不自然ではありません。

 

孔子がここで「天命」といっているのは天、あるいは神のような絶対的な存在からくる命令ということなので、50を過ぎたらその天からの命令に耳をかしなさいというメッセージです。私は牧師になるために神学校に行きましたが、そこには50代の医師、弁護士、NASAのエンジニアなど、それなりに人生のキャリアで成功した人たちが多くいました。殆どの人がCALLINGがあったと言っていましたが、どちらかというと、それを模索していたという表現の方が良いかもしれません。つまり、それは自分が生きる意義とこの世に何を残すのか、ということです。それは自分が死ぬとき、そして自分が信じる神と直面した際に、命令を果たしたと報告できるかどうかです。死ねば、財産も、名誉や権力も天にもっていくことはできません。この世に残るレガシーも、要は残された社会に何を貢献したかということにつきるのです。

 

15にして志し、30にして独立し、40に自分が職能を極めたのであれば、50になればレガシーを残すため、死ぬときに後悔がないように天の声を聞き、それに従うということを考えなければならない。この50の天命を知るということが人生で最も難しく、重要なキャリアプランとなることでしょう。おじさんは人の邪魔をしたり、自慢話をしたりするような時間はなく、むしろこの新たな、重要な課題に日々忙しく過ごしていなければならないのです。社会のお荷物になるのではなく、社会への貢献に日々没頭するのが50代の生き方なのです。