60歳になると一般的にシニア(中高年)の年齢になります。年末日本に帰国した際に紅白歌合戦を久々に見ましたが、68歳の郷ひろみがブレークダンスに挑戦するなどとてもシニアとは思えないような容姿の人も増えてきました。ただ確実にその体は60年以上存在してきたので、ある程度リスクがあります。10万マイルを超えた車のようにあちこちしっかり手入れをしておかないといつ止まるかわからない年齢になってきているのです。

 

60代は何かと健康意識が高くなるので、その点はわかりきっているので書きません。今回はむしろ、環境、そしてマインドの面を考えてみたいと思います。私が日本を去ったのは1993年ですが、必ず年に1~2回は日本に戻っています。なのでスポットで日本の変化を見てきているわけですが、そんな中気が付いた点として、意味もなく怒っている中高齢の特に「おじさん」をよく見るようになったということです。役所、スーパー、電車の中、色々なところで見かけますが、皆さんはどうでしょうか?ある一定数の精神障害の人などは常にいるので、これはただ単に中高齢の人口が増えたから目立つようになってきたということなのでしょうか?私はこの現象はアメリカで銃の乱射による無差別殺人が増えたことと共通するのではないかと考えています。銃の乱射の犯人を見るとその背後に家庭生活が崩壊しているということが言えます。コロンバインスクール事件のように犯人が一見まともな家族に見えてもそれは仮面家族であり、子供はアイソレートされ、家族という最も重要なCommunityとしての機能は果たしていなかったという事実があります。古代から人間はまずは家族というCommunityに属し、それから部族、国家という単位で組織の構成員となっていったのです。家族が子供を育て、共通の認識や付加価値を家庭内教育をもとに植え付け、そして社会に出ていき新たな家族を作るという流れです。ここで身に着ける協調性と、集団的倫理により人々の行動がコントロールされてきたのです。家族の名誉、家族の手前、社会では変なことはできないという構図があり、突発的な社会問題に対するある種の抑止効果もありました。近代になり、家族という構成要素が崩壊し、仮面家族が増え、より孤立する人が増えてきています。家族に属しているという意識も薄れ、孤立した寂しさから社会にぶつかるという問題が背後にあるような気がします。昔は経済的な結びつきが家族という単位であり、年寄りや子供は嫌でも家族に依存するしかありませんでした。社会保障が充実するにつれより孤立が増えるというやや皮肉な副作用だと思います。

 

離婚率が増え、更に死別もあるので、高齢の一人暮らしの割合は増えています。総務省のデータによると、65歳以上で一人暮らしは630万人、20%の高齢者、高齢者の5人に一人は一人という現実です。これが引きこもりなどと重なると益々孤独死が増え、臭いアパートが増えるリスクがあります。高齢者の多くは健康的にも不安定であり、常にだれかに見てもらう必要があります。地方自治体で孤立した年寄りをモニターするサービスをしているようですが、それにも限界があります。年寄りはどこかに属さなければならないのです。

 

古代から家族が崩壊してしまうことはよくありました。聖書の使徒行伝には初期の教会の姿が載っていますが、それは家族が崩壊して見放された未亡人や老人、みなしごなどを保護する共同のコミュニティーであり、「家族」だとしています。アメリカで教会に行くとBrother, Sisterなどと呼ばれるのにはその由来があります。高齢化社会ではこの「新たな家族」の存在が重要になると思います。なので、今後、特に日本ではこのような高齢者の共同体、あるいはシェアハウスのようなものが急激に増えると予想されます。なぜならそこには以下の圧倒的なメリットと高齢化社会に対する備えがあるからです。

1)経済的メリット:共同生活は各世帯の負担が軽減し、食事などもさらに共有することで家事の負担、食費も軽減できます。今後老人の貧困化が予想されるので、良い対策になります。

2)非常時の対応:共同生活をしているので、誰かに何かがあっても対応できます。留守をするにしても、病気の際にもバックアップ体制があります。孤独死のリスクがあり、老人にアパートを貸す率が減ると想定されるので良い対抗策になります。

3)犯罪の予防:オレオレ詐欺、詐欺商法など年寄りをターゲットにした悪徳商法は後を絶ちません。共同生活をしていればお互いのチェックができるし、危険な訪問販売を抑止することもできるので良い対応策になります。

4)話す相手の存在とボケ防止:人間関係が絶たれてしまうとボケが進むと言われています。「新しい家族」の存在は人生に新しい刺激と日々の会話を生み、人生に希望を与える「孤独」に対する対応策になります。

5)死に対する備え:高齢になると常に死と隣り合わせになります。ただ、現実的にその備えができてなく、孤独死や突然死で多くの問題を遺族に残すことがあります。入居に関して死や病気の際のプロセスを明確にすることにより、これらの問題に対する良い対応策になります。

 

これらは介護を意図した老人ホームに入る以前の60代~70代が適切であるかと思います。そして運営や斡旋はその後に引き取る老人ホームや、結婚相談所がすれば良いかと思います。特にまだ退職金などで余裕がある60代にトラストを作り、これらの施設が保護することで、死ぬまで経済的にやっていけるモデルを作ることができます。ただ、これは「新たな家族」になるので、「合う、合わない」といった個性の問題もあるので、メンバー選びが重要になります。そこで結婚相談所のプロセスがそこにはぴったり合うわけです。更にこれは結婚とは違い共同生活のパートナーなので、ある程度の相性は必要ですが、夫婦になるわけではないので、そこまで厳しい基準にする必要性もありません。そこで良い家族、コミュニティーに属して幸せな人生後期を迎えるのに必要になるのが60代における聞くスキルだと思います。

 

5.子曰、六十而耳順(60にして耳従う)

 

孔子ともある先生が人に話をするのではなく、人の話を聞く、と言い切っているのが興味深いのが60歳です。なぜあえてここで「人の話を聞く」と言っているのでしょうか?人によっては天の声を聞くと言っている人もいますが、天命を知った10年後で天の声を聞くというのも変なものです。なのでここでは「他の人の話に聞き順う」ということだと思います。「順う」は「従う」と違い、プロセス(順)にのっとるというものです。60歳で定年退職をするとただの人になり、中には昔の威厳を保ちたく、自慢話ばかりする人もいます。ただ、ここで認識しなければならないのは、銀座のクラブにしても、キャバクラにしても、自分の話を聞いてもらうのにお金を払わなければならないという現実です。年寄りの自慢話はみじめでしかありませんし、その先に新たな人間関係を築くのには障害になります。60で「ただのおじさん」になったら自らの力でまた人との接点を見出し、新たな人間関係を形成していかないと自分が属するコミュニティー或いは人間関係を構築することは困難なのです。

 

そこで人の話に耳を貸すということが重要になってきます。コンサルタント時代に私は時間に対するプレッシャーが高かったので、人の話を聞く以上に説得をすることに時間をかけていたような気がします。学生の指導をする際も牧師になる際にも話をすることが自らの役割と勘違いしていた部分がありました。どんなに良い話ができても、相手との人間関係が構築できなければ牧師としては失敗です。相手の立場になり、ゆっくりと時間をかけ相手の考えや状況を理解することで、徐々に人間関係を構築するといった地道な努力が牧師には不可欠なのです。そしてその信頼関係ができないと人々はなかなか自分の言うことに従わず、彼らのリーダーとなることはできないのです。コンサルとは違い、人生となると気持ちが重要になるのでロジック以上に思いやりが重要になり、親身に話を聞くということをしないと、特に年配の方との人間関係を構築するのは困難です。相手の話を聞き、理解するからこそ、長い人生経験からくる適切なアドバイスもできるし、何より話を聞くことで構築した人間関係があるからこそ相手の考え方に影響を与えることができるのです。

 

60でリタイヤしたら新たな人間関係を模索しなければなりません。結婚していても、ずっと家に居てゴロゴロしていたら邪魔にされ、高齢離婚の道まっしぐらになります。多くの人はまだ20年、30年と生きるのです。だからこそ新たな人間関係を模索しなければならないのです。私は個人的には高齢者のシェアハウスは面白いと思います。日本に帰ったら教会を通じてつくってみたいとも感じています。そしてその際には相手との相性が問われるので、「聞く力」「人間関係構築の力」が重要になるのです。孔子でさえ「耳順う」と言っているのです。さすが孔子ですね。60歳にして最も必要なスキルであると思います。