全ての人は死にます。生まれてから死ぬまでを人生といいますが、その人生で人は何を成し遂げるべきなのでしょうか?たくさん財産の築き、たくさん子孫を残し、子孫を繁栄させることでしょうか?古代から人間の中には人生の意義や目的を見つけようとする人がいました。それらは哲学と言われ、学問の基礎になりました。儒教は宗教というよりは哲学的な側面があるので、恐らく孔子は70歳を過ぎてあるべき状態として70歳を過ぎてのアドバイスを残したのだと思います。なので、70によって成し遂げた状態は努力の最終形であり、それが人生の意義の集大成的なのだと思います。

 

6.子曰、七十而従心所欲不踰矩(七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず)

これを70にもなれば、「自分の欲望に節度がつき、社会の規則を逸脱しなくなる」と解説する人もいますが、孔子は、誰しもが自然にこのような状態になるというようなことを言っているのではないと思います。それが当たり前のことであればわざわざ言う必要も意義もないからです。更に「社会の規則」「法律」というものはその時代の権力者の考えや世相が反映されるだけでなく、解釈にも差があります。儒教におけるキーワードとして仁・義・礼という言葉があり、それれは孔子の考えがベースになっていると言われます。つまり、仁(憐みの心を持ち)、義(固く正義を守り)、礼(他人を敬う)といった節度ある行動が自然にできる状態を70にして体得したと言っているのではないかと思います。

 

「心の欲する所」とは何でしょうか?これは欲望であり、「~がしたい」ということです。聖書には「肉」と「霊」に関する記述があり、これは古代ギリシア哲学のプラトンの言ったことと共通する部分でもあります。肉体の欲すること、「肉欲」とは具体的にどういうことかというとそれは中世キリスト教の中で言われた7Deadly Sins(7つの大罪)に集約されます。それは以下の通りです。

1)Γαστριμαργία (Gluttony)大食い、大酒飲み、です。これは肉欲の中の食欲から来ていることですが、結果として肥満や成人病を発生するだけでなく、社会的には限られた食料を特定の人が独り占めするという問題を引き起こします。

2)Πορνεία (Lust)色欲、性に対する欲望です。これは肉欲のなかの性欲から来ています。性欲はエスカレートし、中毒、レイプ、浮気、家庭の破滅といった問題を引き起こします。

3)Φιλαργυρία (Greed)これは財産や富を得ようとする欲望です。これも肉欲であり、人々はこれを求めすぎると、他人の物を奪ったり、富を独占して貧困者を顧みないといった社会問題を引き起こします。

4)Λύπη  (Envy)嫉妬、妬みです。これも肉欲であり、聖書に出てくる最初の殺人事件は嫉妬が原因となります。現代のストーカー事件や、いじめといった社会問題になります。

5)Ὀργή (Anger)怒り。怒りは肉欲であり、コントロールを失いエスカレートすると殺人などの犯罪を引き起こします。

6)Ἀκηδία(Sloth)怠惰。動物などを観察すると何もしてていない時間が結構ありますが、人間は何もしていないと怠惰になり、社会生産性がない分、社会のお荷物とされてしまいます。

7)Κενοδοξία(Vain)自惚れ、名誉欲。人の上に立ちたい、名誉欲です。これらもエスカレートすると、他の人を蹴落としたり、必要以上に自分をよく見せようとします。

 

これらの欲望の存在は「肉」に従う社会の場合は問題とはされません。むしろ節度を持っていれば、これらの欲望のどれも経済活動における「需要」であり、悪くはないとされます。法治国家の中では社会的に大きな害をもたらす「違法行為」にならない限りは、「悪い」とはされないのです。なので、「節度」さえあれば良いと解釈される傾向があります。但しなぜこれらが大罪とされたのでしょうか?それはこれらはすべて自己中心的な欲望であり、心の中がそれに満たされてしまうと、周りが見えなくなり、自分の人生の優先順位がそれらに支配されてしまうからです。つまり、周りや社会は二の次になってしまうのです。つまり自分から出る欲望そのものが最終的には破滅をもたらすという「原罪」的な発想です。

 

人間はそのような社会ではなくより高尚なものを求めるべきだという教えが古代から哲学や多くの宗教で語られてきました。それを示す言葉として、「肉」の対極にある「霊」というものがあります。「肉」は動物的なものでありますが、「霊」は人間的なものです。キリスト教の世界では「聖霊に満たされる」という表現をしますが、それは自分の心が自己中心的な「肉欲」から解放され、神の願っている我々の心の在り方と一体になっているということです。「神の力で自分が変えられた」という表現は「自分が欲する自己中心的な欲望から解放され、神の教えに従いたいと思うようになった」ということでもあるのです。

 

孔子はキリスト以前の人間であり、当然クリスチャンではありません。但し、この「肉」と「霊」の発想はキリスト教以前の問題であり、全ての宗教に共通する考え方でもあります。儒教が生まれた紀元前4~5世紀は、ギリシアではプラトンのイデア論、インドでは仏教における四諦(苦・集・滅・道)、そして中国の儒教における人・義・礼のように、欲望に従う生き方が社会的な弊害になるだけでなく、知識ある人間の生き方として未熟であるという考え方があったのです。「法律を守っていれば悪くない」というのは倫理的には非常に貧困な考え方であり、むしろ、そのような欲求を持つことから脱却しなければならないという霊的な成熟を古代から倫理や宗教が説いてきました。というのも、法律は人間が便宜的に作った決まりにすぎず、それ自体が豊かな人間としての生き方、豊かな社会を生むことにはならないからです。むしろ頭の中で、何を重要だと考えるか、心が何に魅かれて生きているのかという部分が重要だからです。キリストが言う「女性を性的に意識して目が見てしまう場合に、目を取り除け」(マタイ5:28-29)と言っているのは、まさに欲望の心の中のコントロールの問題であり、法律の枠を超えた、心の在り方を述べています。キリストが説いたGOLDEN RULE(己の欲する所を他に施せ)(マタイ7:12)のようなことが自然にできるという心の状態が、孔子の言う「心の欲するところ」が行きつくレベルであり、仁・義・礼と共通する人のあるべき姿なのです。そして古代から伝わる宗教の存在意義がそこにあるのです。

 

キリスト教にしても仏教にしても古代から肉欲から解放されるための修行というものがありました。そして、その修行はまさに「心を清める」ということにそのゴールがあります。7つの大罪である欲望からの心を清めることです。そしてそのゴールを達成したかどうか実感できるのが、自分の心が欲する所が、自己中心的なものではなく、仁・義・礼が自然にできるような状態になっているということなのです。7つの大罪が大罪とは思われない現代社会の中では「霊」を極めることに美徳を感じる人は少ないでしょう。ただ、せめて70になり、死を目の前に控えたら心を清め、魂の救済を求めることが70年間人間として自分自身を鍛え上げた喜びにもなり、この世に良い足跡を残す最期になるのだと思います。